ここ石川県は、源氏と平家の戦いの場として様々な歴史が残っています。
斉藤実盛 篠原古戦場【実盛塚】の由来
現在の加賀市篠原町付近にある「篠原古戦場」は、その昔、源平の戦いが繰り広げられた場所です。
寿永二年(1183)、倶利伽羅の戦いで木曽義仲(源義仲)に大敗した平家の軍勢は、加賀平野を南下し、ここ篠原の地で陣を立て直し、義仲との決戦を図りました。
しかし勢いづいた義仲軍を阻止することはできず、平家軍はふたたび敗れ去りました。
このとき、敗走する平家軍でただ一騎踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛でした
実盛はこの時73歳。老武者とあなどられることを恥じとし、白髪を黒く染めて参戦しましたが、義仲軍の手塚太郎光盛に討ち取られ、激的な最期を遂げました。
その亡骸を葬ったと伝えられているのが、ここ「実盛塚」です。
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実盛の幽霊
この実盛塚での伝説では、応永21年(1414)に時宗14世遊行上人が篠原の地を巡錫中、実盛の亡霊があらわれ救いを求めたので、上人が回向(死者の成仏を願って仏事供養をすること)したらたちまち成仏したといわれ、世阿弥作の謡曲「実盛」でひろく世に知れ渡っています。
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駐車場と、篠原古戦場【実盛塚」への行き方
専用の無料駐車場があります。
(車やスマホのナビでセットすると、近くまで行く事が出来ますが、目の前までは行けませんでした。)
木の看板を目印にしてください(^.^)
こちらが駐車場になります。
駐車場から、実盛塚までは徒歩で3分ほどです。
通りの反対側に、実盛塚の入り口がありますが、奥に入った所にあるので、入り口は見落としてしまいそうです。
《実盛塚入り口》
この奥へ進んで行くと、篠原古戦場【実盛塚】があります。
かつて壮絶な戦いがあったとは想像も出来ない、今では見晴らしの良い素敵な公園となっています。
管理が行き届き、中には休憩所も設置されていました。
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実盛と義仲の哀しい物語...
実盛と義仲には、とても深い縁がありました。
その事実に気づいたのは、実盛が討ち取られた後の事でした。
実盛は、義仲が幼少の頃、命を助けた事のある大切な恩人だったのです。
実盛はかつて源氏に属していた頃、大蔵合戦で父・源義賢を討たれた駒王丸(木曽義仲、当時2歳)を、木曽の中原兼遠のもとへ送り届けた、義仲にとってはいわば命の恩人なのでした。
しかし、今は平家の武将。この事実を明かさず、命乞いをする事もなく、73歳という老齢に達していた実盛は、この戦いを最期の一戦と覚悟し、侍大将のみが着用できる錦の直垂を身につけ、さらに老齢であることを隠すために白髪頭を黒く染めて戦いに挑みました。
実盛は馬を立て直して手塚太郎光盛の呼びかけに応じて切りあい、二人は切りあったまま馬から落ちてしまいました。
光盛は組みしかれましたが、すばやく小刀をぬき実盛を刺し、実盛の首を討ち取りました。
名を名乗らかなかったので、誰の首か分かりませんでした。
光盛の友人、樋口次郎兼光はそれが実盛であると直感しましたが、黒い髪を不思議に思い、首を洗ってみると、白髪の実盛があらわれました。
義仲は、幼少の頃に自分の命を助けてくれた恩人だと分かり、実盛の首を抱きかかえて涙した。と言う哀しい言い伝えがあります。
この時の、首を洗った池が『首洗池』として、ここから1.4㎞ほどの場所にあり、その時の悲涙にくれる名場面の像が首洗池のほとりに建っています。
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斉藤実盛とは...?
平安時代末期の武将です。
藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛の子。
越前国の出身で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれました。
源義朝の弟・源義賢に従い、のちに平家に就くことになりました。
1155年に、源義朝の子・源義平(15歳)が畠山重能らと大蔵館を襲撃(大蔵の戦い)して、源義賢、秩父重隆を討ちます。
そして、畠山重能は源義賢の遺児・駒王丸(2歳)を探して殺害するよう命じられました。しかし、畠山重能は幼子を殺害するのは気の毒だとして、源義朝と源義平、そして源義賢にも使えたことがある斎藤実盛に、駒王丸を逃がすように命じたのです。
斎藤実盛は、乳母の夫である信濃は木曽の中原兼遠を頼って、秘かに駒王丸を逃しました。
この駒王丸が後の「木曽義仲(源義仲)」です。
実盛は、駒王丸の命を助けた恩人となるわけです。最期は、義仲の家臣に討たれ、篠原にて命を落としました。
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木曽義仲とは...?
源義仲とも呼び、平安時代末期の信濃源氏の武将で、「源頼朝」「義経」の従兄弟にあたります。
以仁王の令旨によって挙兵し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京。当時、飢餓と荒廃した都の治安回復を任されましたが、回復には至らず、更に悪化。王位継承への介入なども加わって、後白河法皇と不和になってしまいます。
法住寺合戦でクーデターを起こし、法王と後鳥羽天皇を幽閉し征東大将軍となるも、源頼朝が送った、義経、範頼の軍勢に追われる身となってしまい、近江国粟津で顔面に矢を射られ哀しい最期を迎える事となりました。
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平家物語から「実盛最期」
実盛と義仲のエピソードは、平家物語の中で「実盛最期」として記されています。
おすすめ | ★★★☆☆(3点) |
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感想 | 源平合戦で平家が落ちていく中で大きな物語が語り継がれる篠原古戦場は、今では見晴らしの良いきれいに整備された公園となっています。実盛と義仲の哀しい物語を知ったうえで訪れることをお勧めします。周辺には、実盛の首を洗った「首洗池」や、実盛が白髪を染める際に使った古鏡のある「鏡の池」、実盛の石像がある「多田神社」など、源平合戦ゆかりの地となっているので、物語を訪ねて周るのも素敵です(^.^) |
住所 | 〒922-0405 石川県加賀市手塚町篠原新町他 |
電話番号 | 0761-72-7900(加賀市観光交流課) |
営業時間 | 日が明るいうちに行く事をお勧めします。 |
定休日 | 無し |
駐車場 | 無料駐車場あり。駐車場から古戦場まで徒歩で3分ほどです。 |
備考 | ホームページはこちら |